とっておきの、
夜も更けたころ。
エッダの部屋を訪れた来訪者は開口一番、
「眠れないんだけど」
そう訴えた。
前にも同じ状況があったなあ、と、エッダはくすっと笑う。
「なにがおかしいのさ」
「いやね、前にも同じことがあったなぁ、って。立ち話もなんだから、入って」
「……夜中に男を部屋に入れるんだ?」
「来たのはきみでしょ?」
それを指摘すると、シンクは黙ったまま、彼のために開かれた扉をくぐった。
*
招き入れられた彼は大人しくベッドの端に座った。
「ちょっと待っててね」
「……早くしてよね」
「はいはい」
エッダ憎まれ口をあしらいながら、部屋に備え付けの箱型の音機関――保冷譜業機の扉を開ける。中から蓋つきの硝子瓶を取り出した。中身は牛乳だ。ちゃぷん、と音をたてるそれを、壁のフックに引っ掛けてあった小鍋に目分量で注ぎ、瓶は再び保冷機へと戻す。
さて、と簡易キッチンに立ち、小鍋を火にかけた。
そうして、ふ、と何気なくシンクを見遣れば、仮面越しに視線がかち合った。
「見てて楽しい?」
「……まあ、普通」
それは、つまり。否定の言葉ばかりが得意なシンクが言わないのだから、見ていて楽しい、という答えと同義だ。
エッダの胸が少しくすぐったくなった。
火にかけた小鍋の牛乳は、沸騰させないように木べらでかき混ぜながら加熱し続ける。
――しばらくして、鍋のふちがふつふつとし出した。そうすれば頃合いの合図だ。
火を止め、マグカップを二つ用意する。それに熱々の牛乳を注ぐ。
立ち上る湯気が物語る、ホットミルクの熱。
眠れないときの、とっておき。
「お待たせ。熱いから火傷しないようね」
ベッドの縁に腰かけて静かに待っていたシンクにカップを差し出す。中身を覗き込みシンクは、
「……牛乳」
「飲めるでしょ?」
「嫌いじゃあ、ないけど」
カップを受け取り、シンクは縁に口をつけ「っあつ」小さく言葉をこぼした。
だから忠告したのに。エッダは苦笑を浮かべる。
「火傷した?」
「……したかも」
いつになく素直な申告だった。
立ちっぱなしというのもなんなので、エッダはシンクの隣に腰かけた。そんな自身はというと、ちゃっかりしっかり、湯気を吹き飛ばすように、ふうふうと息を吹きかけて飲み頃に冷ます試みをする。
それを見たシンクもならい、カップに向かってふうーと息を吹きかけ始めた。
二人分の息の音が響く。
そろそろかな、と慎重にカップの縁に口をつけ、ゆっくりと中身を傾けた。まだ少し熱い。でもこれくらいが丁度良い。
隣のシンクもこくりと喉を鳴らした。今度は、熱い、とは言わなかった。
「眠れないときはね、これが効くんだよ」
「ただのホットミルクが?」
「ただのホットミルクが。身体があったまってよく眠れるんだ」
「ふぅん」
カップはすぐに空になった。身体がぽかぽかと温かい。ホットミルクは美味しいなあ、と気持ちまで温かくなる。
「……ご馳走さま」
「お粗末様でした」
シンクから空になったカップを受け取り、自分のカップと一緒に流し台で手早く洗う。清潔な布で水気を拭ったそれらは定位置に戻した。
さて、と振り向き。
視界に飛び込んだのは、変わらずベッドにいながらも――身体を横たえたシンクだった。
「え、シンク?」
返事は、ない。
――え、もしかして。もしかして?
恐る恐る、ベッドに近づく。静かな呼吸音が聞こえてきた。
……シンクが、寝ている。他人の部屋、それも他人のベッドで?
「おおい」
肩を揺する。やはり反応はない。
洗い物をしたこの短時間で深く寝入ってしまったのか。
とっておきのホットミルク、効果がありすぎやしないか。
というか、どうしよう。せっかく寝ているシンクを起こすのは忍びない。
――そうだ、だったら。
エッダは閃いた。
早速クローゼットから予備のブランケットを持ってきて、シンクの隣に寝転んだ。いつものブランケットはシンクが下敷きにしてしまっているから、予備のそれ一枚を隣の彼と分け合うしかない。
もぞもぞしても、毛布をかけても、シンクはくうくうと寝息をたてている。寝にくそうだったので仮面をそっと外しても、変わらずに。
ベッドサイドに仮面を置き、静かに声をかける。
「……おやすみ、シンク」
目蓋を閉じる。
隣の寝息が呼び水になって、たちまちに眠気がやってきた。
彼も自分も、穏やかな夢をみられるようにと願うばかり。
とっておきの、
2021.10.24 初出
2022.04.22 加筆修正