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 あれはまだ、シンクが人知れずダアトの郊外で訓練を積んでいた時期のこと。

 肩を落として、とぼとぼとが歩いてくる。いつも朗らかでやわらかな微笑みを浮かべているのだけれども、どういうわけか、今日はその笑顔も消え失せ、意気消沈した面持ちを浮かべている。
 あまりにも普段の姿からかけ離れていてたので、シンクはつい、声をかけていた。
「……どうしたのさ。元気ないみたいだけど」
「うぅ……聖歌隊の最終選抜で落ちたんだよぉ……」
「セイカタイ?」

 聞きなれない単語に首を傾げるシンクに、は、ああ、と声を上げる。

「そっか、シンクはまだ参加したことなかったよね。えーと聖歌隊っていうのは、毎週のレムの日の礼拝のときや式典のときなんかに、賛美歌を歌う部署のことなんだけど……教団員の中から、歌の上手い人が選ばれるわけで……」
 語尾が段々と小さくなっていく。
 それでシンクは察した。
「つまりアンタは選ばれなかったってことだ」
「そういうこと……」
 はがくりと肩を落とす。
「そんなにその、セイカタイとやらに選ばれたいんだ?」
「一度はね、やってみたいよね。歌うの好きだし。でもやっぱそれじゃあ駄目なんだよねぇ……最終選抜に残った人たち、みんな歌上手かった……はあ……」
 大きなため息までつく始末。
 これは相当に落ち込んでいるようだ。

 その姿があまりにも印象的だったから、シンクの記憶の中に残っていた。


 *


 カリカリと羽ペンを走らせる音だけが響く、第五師団師団長執務室。いまこの部屋にいるのは師団長であるシンクだけだ。補佐のは所用で席を外している。
 シンクからすれば性懲りもなく、聖歌隊の選抜試験に挑んでいる真っ最中なのだ。
 あれの一体どこがいいのだろうとシンクは疑問に思う。
 師団長に就任してから何度か式典や祭典に参加したが、が望む聖歌隊の出番は、一度に歌を一曲か二曲歌うきりだ。その短い出番のために日々練習をしているらしいと聞いているが、歌に興味のないシンクにはその熱意がまるきり理解できなかった。
 のことだって、そうだ。
 聖歌隊の選抜試験がある度に挑んでいるが、毎回落ちている。だというのにめげることなく、毎回試験に挑んでいる。最終選抜に残るくらいなので平均よりは上手いのだろうが、それでも最終選抜には落ちている。
 よくもまあやるものだ、とある種の感心は抱くけれども。

 と、キィと静かな音を立てて執務室の扉が開く。
 この部屋にノックもなく入れる存在は限られている。部屋の主であるシンクと、その補佐官であるのみだ。
 シンクが執務机に向かっているということは――

「ただいま……」

 力のない声と共に入室してきたのは、落ち込んだ表情のだった。

「は、なにその顔。また落ちたわけ?」
「そうだよぅ……またとか言うなよぅ……傷口をえぐるんじゃない……」

 いつもの陽気な笑顔はどこへやら。
 情けなく眉を下げ、視線は伏せがちに、自分の席に静かに座る。ぺたんと頭を机に落とした。

 らしくない、とシンクは思う。
 こんなは、そう、“らしくない”。
 いつもにこやかで、朗らかで、皮肉を投げつければ怒り。明朗快活な姿とはあまりにもかけ離れている。
 それがどうしてか落ち着かない。見ていられない。早くいつもの姿に戻ればいいのに、と身勝手な感情が湧き上がってくる。自分とそう変わらないはずの後ろ姿がやけに小さく見える。
 だから、とっさに口にしていた。羽ペンを持つ手はとっくに止まっていた。

「歌いなよ」

 たっぷりの間を置いてから、「……はぁ?」と返事が返ってくる。
 怪訝な瞳がシンクを見た。

「歌は、誰かに聞かせるために歌うんだろ」
「それはそうだけど……え、いまここで? 本気で言ってる?」
「冗談に聞こえた?」
「……聞えなかった、けど」

 誰かのために、歌う、うた。
 その場に立つことが叶わないというのなら。

「ボクが聴いててやるから、歌えばいい」

 ならばいっそ、と。
 そう、思った。

「……下手って言ったら怒るから」
「本当に下手だったら言うかもね」
「自分で提案しておきながら貶すのはやめてよね」
 はぁ、と大きなため息をひとつ。そして椅子から立ち上がる。深呼吸を数度繰り返し、咳払いをひとつ。

「それじゃあ、いくよ」

 若干固い表情でが言う。
 そういえば、とシンクは今更ながらに気付いた。の歌声を始めて聞く事実に。今まで、練習風景すら居合わせたことがなかったから。
 がすぅ、と息を吸う。
 歌声が響く。

 レィ レィ ズェ ……

 澄んだ声だ、と思った。
 シンクに歌の良しあしは分からないけれども、の高すぎない歌声は聴いていて心地がいい。式典で聞く聖歌隊の合唱などよりも、よほど。
 あるいは、この旋律を奏でる歌声が自分のためだけに歌われているせいかもしれない。

 一曲だけじゃあ聞き足りないな、と思い、いま歌っている歌が終わったらもう一曲歌わせてみようと画策するシンクの口元には、薄く笑みが浮かんでいた。

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2022.07.30 初出
2023.01.02 加筆修正

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