特別じゃない日
補佐官の娘が、そこはかとなく上機嫌で外回りから帰ってきた。
ふわり、と執務室に漂う甘い菓子の香り。手に持った小箱からして、手土産のケーキか。よくあることだ、とシンクは思う。
案の定、芳香発する小箱を応接テーブルに置いたは、茶を淹れる準備をし始めた。
「紅茶淹れるけど、リクエスト、ある?」
「なんでもいいよ」
「了解」
書類から顔も上げずにシンクは答える。はそれに気分を害した様子もない。付き合いの深さが慣れっこにさせてくれた。
――簡易型譜業コンロにかけた薬缶の中の水が、しゅんしゅんと音を立て、段々と沸騰へと近づいていく。
書類を書く手を動かしたままシンクはそれを聞いていた。
――この音は嫌いじゃない。なんとなく、ただ、なんとなく、思う。
は沸騰直前の薬缶を一度音機関から外し、あらかじめ用意していたティーポットと、二客のティーカップに湯を注ぐ。器の保温のためだ。湯の沸騰温度から下がってしまうと紅茶の味が抽出しきれない。そのためにティーポットは温めておく。
また音機関にかけられた薬缶が、しゅんしゅん、といっそう音を高めていく。
ぴい、と沸騰が臨界を告げた。
ぴいいいい。
は慣れた手つきで、音機関の過熱を止め、ティーポットの中身を流しに捨ててから分量通りの茶葉を投入し、火傷しそうなほど熱々の湯を注いだ。ふわ、と、室内に茶葉の芳香が香り出す。
引き出しから取り出したのは小さな砂時計。蒸らし時間を図るためのそれのセットも忘れてはいけない。
*
紅茶がちょうど良い具合に抽出された頃合いに、ティーカップを温めておいたお湯を捨て、そこに出来立ての紅茶を注ぐ。
紅色の湯。そして肺いっぱいに満ちる芳香。
シンクは、実のところこの瞬間は悪くないと思っている。自分のために割かれた、時間と手間暇。それをしたのが彼女。悪くない。
「――さ、お茶入ったよ! ケーキ食べよー?」
そこでシンクは、書き物の手を止めた。
応接セットの対面テーブルの上には、それぞれ皿に乗ったケーキと二客のティーカップが準備されている。
ソファに座ったシンクはケーキをためすすがめつする。
……薄紅色のクリームがかかった、いかにも甘ったるそうな、菓子。
「これ、なに」
「イチゴのミルクレープだって! 美味しそうだよねえ!」
の相好は、それはそれはだらしなく崩れている。それほど楽しみなのだろう。
「それじゃ、いただきまーす!」
「……いただきます」
いそいそとフォークを手に取った彼女にならい、シンクもフォークを手にした。ミルクレープの上の薄紅色したクリームを少し掬い、口に含む。途端、舌の上にじんわりと広がる苺の風味に、……悪くはない、と思う。
テーブルを挟んで反対側に座る娘は直ぐ様ぺろりと食べきるのかと思いきや、思いのほか、時間をかけてケーキをつついている。
「ノロノロ食べるね」
「美味しくって、一気に食べるのが勿体ない……!」
つまり、じっくり味わっているのだ。
そうか、この菓子はのお眼鏡に敵ったらしい。
ならば、と。
シンクはフォークをクレープとクリームの層に突き立て、小さく切り取って口に放り込んだ。
甘い、あまい、苺のクリームと、香ばしく焼きあがったクレープ生地の層。
「……ま、悪くないんじゃない?」
「でしょ?」
は嬉しそうに、いつものように、へらりと笑った。
特別じゃない日
2018.11.08 初出
2022.04.22 加筆修正