声。あたたかな名を呼ぶ、
シンクはディストの研究室に足を運んでいた。だが、部屋の主には用がない。
目的は彼の蔵書――特に譜術に関する書籍だった。ジェイド・バルフォア博士の論文は同世代の研究者の中では抜きん出て優れている。
眉唾なことに、ディストはこのバルフォア博士と幼馴染だの友人だのと自称しているが。どうせいつもの妄言の類だろうとシンクは聞き流しつつ、本棚の書物を物色していた。
――そんな少年の背を、ディストは観察する。
レプリカ。シンクは導師イオンのレプリカだ。ヴァンの言に依ると、身体能力の値が特に優れている個体を回収したのだという。
実際のところ、少年の成長は目を
ディストには野蛮な肉弾戦など興味の範疇外だが、少なくとも知る限りでは弱くないはずの少女剣士――との手合わせにおいて勝ち続けるようになったと聞いている。
フォミクリー技術にてある程度の知識は刷り込めても、実際にその動作をよどみなく行えるかどうかは話が異なる。その点シンクは、知識の刷り込みこそありはすれ生まれたばかり赤子も同然だった状態から、短期間で一端の戦士にまで成長してみせた。その目覚ましさに、大したものだと、ディストにしては珍しく素直に感心する。
「しかし、貴方の身がに任せられるとは……同病相憐れんで共倒れは勘弁願いたいものですが、上手くやったものですね」
ぽろり、と。何気なくといった風に零れた呟きに、しかし少年は耳聡く反応したのだった。
「が、なに?」
「ですから上手くやったものですね、と」
「そうじゃない、その前だ。……同病相憐れむ? とボクが? どういうことさ」
仮面の奥で声が鋭くなる。それを意に介さずディストは大仰に頷いてみせた。
「ええ、ですから、この偉大なるディスト様の次に心優しいのことですから、同じ捨て子という境遇を憐れんで役目を果たせないのではないかと――」
言い終わる前に少年の姿は忽然と消え去り。
投げ出された書物が音を立てて床に落ちた。
「……てっきり知っているものとばかり思っていましたが」
残されたディストに応える声は、ない。
*
は宛がわれた自室で荷造りをしていた。
今日、このあとから数日間の遠征任務がある。そのための出発前の最終チェックだった。書き出しておいた持ち物リストを片手に、漏れがないかを順番に確かめていく。
「んーっと、忘れ物はなさそうかな」
広げていた荷物を検め終え、それらをひとつにまとめ始めた、そのときだった。
バン!
勢いよく音を立てて部屋の扉が開けられる。
「えっ!?」
慌てて振り向けば、入り口に立っているのはシンクだった。ノックもなしにどうしたの、と尋ねるよりも早く、彼は大股で近寄ってきたかと思えばの両肩を強い力で握り込む。
「ちょ、痛い、」
「どうして言わなかった」
地を這うような、低い声だった。怒気の込められたそれに一瞬ひるむも、理由に心当たりがない。
「言わなかったって、なにを?」
「アンタが捨て子だったってことだよ!」
怒気をはらんだその声に、は息を呑んだ。
それは。
「……それ、誰に聞いたの?」
「ディストだ」
「あのばか……」
みしり。肩を掴む力が強くなる。
「同情なんかごめんだね」
「違う。同情じゃない。そんなのじゃない」
仮面を真正面から見据えて、反論する。それだけは胸を張れるつもりだった。
シンクの境遇に憐れみを覚えなかったといえば嘘になる。けれども、そんな気持ちで彼と接していたわけじゃない。
「ならどうして言わなかった」
「それは、あたしの中ではもう終わったことだったから……」
は本当の両親の顔を知らない。赤ん坊のとき、ケセドニアの孤児院の前に捨てられていたのだと聞いている。そこで育ち、そして、義理の両親に引き取られた。家族というもののあたたかさを教えてくれたのは義理の父と母だ。この二人がいなければ、いまのはいない。をにんげんにしてくれたのは両親だった。
たとえ、その二人がもういないとしても。
それだけは、変わらない。
それをシンクに伝えても、きっと理解はできないだろう、と思った。なぜなら、シンクはレプリカだから。母もいない。父もいない。ひとりきり。それが悲しくて、だから黙っていよう、と決めていたのに。
仮面の下でシンクがせせら笑う。
「楽しかったかい? 同じように捨てられたボクに優しくなんかしてさあ、それで自分の傷を慰めてたってワケだ」
「――ばか! 優しくするのに理由なんかあるわけないでしょ!」
怒鳴り、両肩にあるシンクの手をもがいて振り払う。
無性に腹が立った。同情だと誤解されたのが腹立たしければ、それを否定してもきっと受け止めてもらえないことが悔しかった。
本当は、優しくしていたことに理由はある。でもそれは見返りを求めてのことじゃない。ましてや、シンクの言うように自分の傷口を舐めることでもない。
ただ、知って欲しかった。感じて欲しかった。
自分が両親から無条件の優しさを与えられたように、シンクにだってその権利があることを。
レプリカなんて関係なく。ひとりのにんげんとして、当たり前に受けられるものがあることを、知って欲しかった。
そんなささやかな気持ちまで否定されたような気がして、段々と悲しみすらこみあげてくる。
俯いたの視界に、散らばった荷物が映り込んだ。しゃがみこんでそれらを手早くまとめる。いまはシンクの顔を見るのが辛かった。都合のいいことに、体良く逃げられる口実もある。
「――あたし、これから遠征だから。じゃあね」
なるべくシンクを見ないように、部屋から出ていく。本当はきちんと話し合うべきだと思ったけれども、一兵士としての立場がそれを許してくれない。
――帰ったら、黙っていたことを謝ろう。それからしっかり話し合って、同情なんかで接していたわけじゃないことを分かってもらいたい。
そんな思いを胸に、は足早に廊下を進んでいく。
部屋に残していったシンクはどんな表情をしているのか、気にしながら。
*
と口論をして、数日。
彼女はまだ帰らない。
師団長のラルゴに遠征の予定を尋ねれば、そろそろ戻る予定だという。
――同情でなければなんだっていうんだ。
ここ数日、シンクの胸中を占めていたのはそんな苛立ちだった。はそれを否定したけれども、でなければなんだというのだろう。
考えてもシンクには理解できず、苛立ちが胸でわだかまり続ける。
お陰で鍛練にもろくに身が入らない。仕方がないので訓練をそこそこに切り上げ、自室に戻ろうとしたときだった。
バタバタと廊下を走ってくる一行とすれ違う。――そのうちの一人に背負われたの姿が目に飛び込んできた。
一瞬のことだったけれども、確かに。
意識がないのかぐったりとした様子だった。怪我でもしているのかもしれない。
ためらいは少しの間だけ。
身をひるがえし、一行を追いかけるべくシンクは駆け出した。
――似合わない。
そんな感想をシンクは抱いた。
視線の先にはベッドで眠るの姿。意識はなく、顔も血の気が失せて青白い。
馬鹿な話だ。他人を庇って大怪我を負うだなんて。らしいといえばらしいけれども。
遠征の帰路の途中で魔物の群れに襲われたらしい。幸いにも治癒術が間に合い怪我そのものは塞がっているが、出血が多かったために気絶状態からなかなか目を覚まさない、というのが医者の見立てだった。
を運び込んだ兵士たちは遠征の事後処理で医務室から去っていた。ここにいるのは常駐する医者と、シンクと、眠り続けるだけ。ごくごくわずかな呼吸と、静かに上下する胸とが、が生きていることを教えてくれる。
そう、こんな静けさは彼女に似合わない。青白い寝顔も違和感だらけだ。
彼女はいつだって明るく朗らかで――ああでも、最後に見た顔は悲しそうな顔だった。でもそうさせたのはシンク自身だ。突然ディストに教えられた情報に動揺して、苛立ちをそのままぶつけてしまったから。冷静じゃなかった。数日が経って頭が冷えたいまは、その罪悪感と、の真意を問いただしたい気持ちが胸のなかでくすぶっている。
早く目を覚ませばいいのに。
そうすれば。に訊きたいことを訊くことだってできるし、違和感だって解消することができる。
ベッド横に椅子を置いて座っていたシンクは、おもむろに手を伸ばし、ブランケットの上に投げ出されていたの手を握りしめた。手袋越しでも分かる、かたい皮膚と剣だこの感触。シンク同様に戦うものの手。それをぎゅうと握りしめる。
「こんな姿、アンタには似合わない。……だから早く目を覚ましなよね、」
――祈りのようなその声が届いたのか。
閉ざされた目蓋に影を落とすまつ毛が、かすかにふるりと揺れる。
シンクがはっと見守る先で、ゆっくりと目蓋が開き――。
「シン、ク?」
夜色の瞳と視線が重なった。
「起きたの」
「ああ……うん……えっと、あたし……遠征の帰りに魔物に襲われて、仲間を庇って、」
「それで大怪我して担ぎ込まれたんだよ」
「そっか……」
視線だけでぐるりと見渡し、ここが神託の盾本部の医務室であることを分かったらしい。
が意識を取り戻したことに気づいた医者がベッドに寄ってくる。軽い問診をしている間、そういえば手を握ったままだったことにシンクは気がついたが、なんとなく、そうなんとなくだけれども離しがたく感じられてしまい、結局そのままにすることにした。
の手は、シンクのそれよりもやや小さい。そんな手で戦っているのかと、今更ながらに思う。背丈は似たようなものなのに、こんなところで男女の違いに気づかされる。当たり前のことを知る。
問診を終え、ぼんやりと天井を眺めていたが、ふ、とシンクの方に顔を向けた。
かと思うと、流れるように言葉をこぼす。
「ね、シンク。――きみに心があって、意思があって、今ここにいることは。他の誰とだって同じなんだよ」
「……!」
それは。
それは、――あまりにも唐突に、シンクの心の一等深いところを揺さぶった。
「なに、いきなりさ」
握りしめている手がとっさにピクリと揺れてしまった。けれども動揺を悟られまいと、努めて平静を装う。そうでもしないと叫びだしてしまいそうだ。それが怒りなのか喜びなのか、シンク自身にも分からない。
そんなシンクを知ってか知らずか、は夜色の瞳を柔らかく細めて笑う。
「それが言いたくってさ。――死ねないな、って思った。だからね、呼んでくれてありがとう、名前」
だから戻ってこれたよ。
その笑みの穏やかなことに、いつもの皮肉が出てこない。ただただ、言われたことを胸の内で繰り返す。
……勝手に産み出されて、勝手に捨てられて、勝手に拾われたゴミみたいな命だ。それはも知っていることだ。知っていてなお、こんなことを言うのか――シンクもひとつの命だと、他と変わらない命だと言うのか。
傲慢だ、と
だというのに、どうしてだろう。
どうしてかそうする気にはなれなかった。
そういえば自分はに腹を立てていたはずなのに、気が付けばそんな気持ちはどこかへ消え去ってしまっていて。
「……名前なんて、いつでも呼んであげるよ。どうしてもっていうならさ、」
。
名を、呼ぶ。
たったそれだけのことが、どうしてもあたたかいことを否定しきれなかったから。
声。あたたかな名を呼ぶ、
2022.01.15 初出
2022.04.20 加筆修正