巡り合わせと言わずになんと言おう
世界が広い、とシンクは思った。文字通りの意味に。
――視界に映し出される世界が広い。
いつも着けていた仮面は、もうない。地核のタルタロスに置き去りにして来た。おかげでダアトに潜入しようと、誰も彼もがシンクだと気づかない。導師イオンと同じ顔――だがそれも、巡礼者に扮しフードを目深にかぶることで発覚を免れている。
中世的な顔立ちがこんなところで役に立つとは思わなかった。
「そこのお嬢ちゃん、ダアトは初めてかい? 宿がまだならウチが空いてるよ」
「ううん、もう決まってるの。ごめんね」
――使えるものはすべて使う。
少女の装いをしてしまえば、いともたやすく人々を騙せた。普段なら逆立てている髪は下ろし、付け毛で長さを出してから前に持ってきて一つに結わっている。男にしては高い声もいまは有用な道具だ。
それにしても、呼び込みの男性従業員の視線が煩わしい。
勝手に勘違いをしていろ。真実を知ろうともしない愚か者どもめ。
内心で毒づく。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。世界はこんなにも虚構で成り立っている。
初めて巡礼に来た体で、おそるおそる、といった態度で、その実は勝手知った協会総本山に踏み入れた。
入り口付近の兵士がシンクの顔を認め動揺したが、とっさに――脳裏に浮かんだ、へらへらとした笑顔を真似て微笑み、会釈すれば、それ以上の追及はなかった。
*
生まれた瞬間に廃棄されたシンクに、もしも幸運というものがあるのなら。きっとこのときなのだろうと、なんとなく感じた。一般参拝者でも立ち入れる区域で、危険を冒してまでシンクがダアトに舞い戻ってきた目的を発見することができたのだから。これを巡り合わせと言わずになんと言おう。
それは小さな子供数人と和気あいあいと戯れていた。きゃらきゃらと楽しげな声が響いている。
濡れ羽色の髪。夜色の瞳。人懐っこくへらりとした笑顔――。
がいた。
さてどうやって接触を図るか。彼女に見つからないよう、物陰に移動して思考する。
すると、楽しげな輪から離れ、ひとり、ぽつねんと立っている子どもがいることに気がついた。なにか眩しそうなものを見る目をしている。仲間に入りたいが、入り方が分からないのだろうと見当をつけた。
――あれを利用しよう。
シンクは荷物から取り出した紙に、ある言葉を書きつけた。なら理解できるだろう。
あれは愚かではない。ずっとシンクの傍にいたのだ。
それに、もしも。
もしも気づかなければ、――も切り捨てれば済む話なのだから。
シンクは目標の子供に歩み寄った。
つとめてやわらかい声音で話しかける。
「ねえ、ちょっといいかな? お願いがあるの」
「……なあに?」
子どもがあどけないまなこで見上げてくる。折りたたんだ紙を渡す。
「あそこにいる、短い黒髪のお姉さんにこれを渡してほしいの。――そしたら、きっと、仲間に入れきっかけができるよ?」
「ほんとう!?」
ぱっと幼い笑顔がほころんだ。やはり仲間に入りたかったようだ。
「ほんとうだよ。――できる?」
合わせて、シンクもとびきりの笑顔を作る。人懐っこく見えるように。あそこで子供の相手をしている彼女のように。
こくり、と頷いた子どもは、勇み足でらに駆け寄っていった。すぐさまシンクは見つからない位置に、それでいて反応が伺える物陰に身を隠す。
しかして子どもは、託した紙をに渡すことができた。
文面を改めたの顔から、瞬間、笑顔が消え去り――そしてまた、にこやかな表情を浮かべる。新たに輪に加わった子どもの頭を撫でてすらいる。しかし、視線がさりげなく周囲を探っていた。紙の本当の持ち主を、シンクを、探しているのだろう。
――その反応を見ることができれば、答えは明らかだった。
どうやら切り捨てずに済むらしい。
それに安堵している自分がいることに、シンクは気づいている。
そうでなければ、いま、ここにいる意味も目的もないのだから。
巡り合わせと言わずになんと言おう
2018.03.08 初出
2022.04.22 加筆修正