距離。それはもどかしい、
その日はずいぶんと静かな一日だった。
原因は分かっている。がいないからだ。やかましいおしゃべりがない代わりに、絶妙なタイミングでシンクに紅茶を入れてくれる存在がいない。
だからこうして、いま、簡易譜業コンロにかけた薬缶のお湯が沸くのを、退屈に腕を組みながら、待っている。
――不便だ。
たった一人いないだけなのに、こんなにも。
薬缶がしゅんしゅんと音を鳴り出したとき、執務室のドアがノックされた。かと思えば、入ってきたのは今まさに思いを馳せていたその人だ。
ただし、とても意気消沈した風に肩を落としている。
……珍しい。彼女はいつもへらへら笑っていることが多く、このように落ち込む姿は滅多に見せることがない。
「うわ。辛気臭いんだけど?」
「友達と遊ぶ約束がなくなった……急に任務が入ったとかで」
皮肉に反論すらないほどだ。
そういえば昨日、浮かれた様子でそんなようなことを言っていた気がする。
あたしもお茶ちょうだい、と上司をこき使うは、普段は見慣れない格好をしていた。いつもの黒装束ではない。
淡い紫色のワンピースに、こげ茶色のショートパンツ。そして足元は膝上丈のロングブーツ。ダアトの街を歩いていそうな、どこにでもいそうな、とてもありふれた少女の姿だ。
――だが、が? そんな、まさしく少女然とした衣装を好んで着るのか? シンクの頭に疑問が湧く。
ぴいいと薬缶のお湯が沸いた音を聞きながら、シンクは尋ねかけてみた。
「――アンタでもそんな恰好ができるんだ?」
返ってきた答えは、
「リグレットに見立ててもらった」
であった。
そうか。が自発的に娘らしい恰好を好むとは想像がつかなかったが、リグレットが一緒ならばそれもありえる。
シンクはひとり合点する。
薬缶のお湯が沸いたところで、シンクはポットと二人分のカップを用意し、まずそれらに熱々のお湯を注いだ。
陶器が充分に温まれば、多少温度の下がったお湯は捨て、今度は分量通りの茶葉をポットに入れて再び湯を注ぎ、蒸らす。それから、あらかじめ用意しておいた砂時計をひっくり返す。
――美味しい紅茶を入れるコツはお湯の温度管理だ。
シンクもいまや一人で紅茶を淹れられるようになった。それを教えてくれたのはだ。彼女はたくさんのものをシンクに与えてくれた。
待つこと数分、砂時計の砂が落ちきった。ポットを傾け、紅い液体をカップに注ぐ。
自分の執務机に突っ伏し落ち込んでいるにカップを渡してやれば、「ありがと……」と力ない礼が返ってきた。なにごとも笑ってすませることの多いが、ここまで落ち込むことは相当に珍しい。
稀有な姿をさらす彼女へとシンクは問いかける。
それはひとさじ程度の好奇心。
「そんなに約束が大事だったんだ?」
「大事、というか。一緒に、新しくできたケーキ屋に行こうって約束だったんだよね。休みが久しぶりに被ったから、凄く楽しみだった……」
ずずず、と淹れたて熱々の紅茶をすすりながらは答える。
シンクは一計を案じた。探りを入れる。
「……その友達って女?」
「そうだけど?」
きょとりした返事が返ってきた。
そうか。女ならば、いい。
胸のつかえがふわりとほどけるのを感じる。
シンクは壁掛け時計に視線を向ける。それから執務机の書類とを見比べ、まだ少し熱めの紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
机に突っ伏してしょげているの姿は、なんというか、とても“らしくない”。
そんな姿に、形容しがたい苛立ちを覚える。
だから。
「辛気臭い顔、鬱陶しいから、付き合ってあげるよ」
「え!?」
処理中だった書類をのちのち再開しやすいよう整理し、さっさと退出の準備を始める。
「え、だって、ケーキ屋だよ?」
「別にそれが?」
「いや、シンクがいいならいいんだけど……」
「先に入り口で待ってて。着替えてくるから」
「わ、わかった」
シンクの強引さに、しどろもどろ返事をしつつ、は紅茶を飲み干した。
二人ともが退出した、神託の盾騎士団第五師団の師団長執務室のドアの入り口には、「師団長しばらく不在」の札がかけられた。
*
ケーキ屋はそこそこに繁盛していた。二人連れ――特に男女のそれが多い。店の内装は華やかすぎず、落ち着きある木目のインテリアが小洒落た雰囲気を演出している。
店に辿り着いたは、目に見えて機嫌がよかった。しまりなく相好を崩している。席に案内され、メニュー表を受け取った目が爛々と輝いている。
こんな姿は普通の年頃の娘らしい可愛げがあるな、と、テーブルの対面席に座ったシンクは思った。
が選んだのは、生クリーム乗せココアと、チーズケーキだった。てっきり、ショートケーキやアップルパイのような、ふんだんに甘い菓子を選ぶと思っていたのだが。
曰く、「チーズケーキが美味しいお店は他のケーキも美味しい!」、とのことだ。
シンクはブラックコーヒーとガトーショコラを注文した。甘味は嫌いではないが、店内に漂う、色々な意味で甘ったるい匂いに食べる前から胸やけがしそうだ。
しばらくして注文の品が運ばれてきた。
は目を輝かせ、意気揚々とチーズケーキにフォークを突き刺し、一口サイズに切り分け口元に運ぶ。ゆっくり味わうように咀嚼し、
「――美味しい!!」
満面の笑みで花をほころばせた。
「そう。よかったね」
シンクもガトーショコラをつつきながら相槌を打つ。確かに美味しい。甘すぎず、チョコレートのほろ苦さが絶妙な味加減を演出している。
この味なら店内が繁盛しているのもうなずけるというものだ。
――ふと。
がチーズケーキを食べ終え、生クリーム乗せココアに口をつけた。それ自体はなにも問題ないのだが、口の端に生クリームが付着していた。そして本人はそれに気づく様子がない。
仕方なくシンクが身振りで「クリーム、ついてる」と伝えるが、ぬぐおうとするの指は惜しいところで届かない。
埒があかないな。
そう思い、対面席からテーブルに身を乗り出し、の柔らかな頬についたクリームを掬い取って。
――そして、己の指についた半固体をそのまま、赤い舌で舐めとった。それを目撃したはみるみる真っ赤に紅潮し、裏返った声で悲鳴を上げる。
「シッ、シンク!?」
「なに。前にあんたも同じことしただろ?」
「そ、それは不可抗力というか! 恥ずかしいから人前でやらないで、って言ったじゃない!?」
「ボクは別に、恥ずかしくない」
思い出す。
あれはまだがシンクの教育係として、日常生活の、全般的な身の回りの世話をしていたころのことだ。
なかなか上手く食べ物を口に運べないシンクの口の端についたものを、今まさにシンクがしたように、は掬いとって自分で食べた。
――そのときのとしてはこどもの世話をしている気分だったのだ。
だから今も、シンクに子ども扱いをされた気分に陥っている。つまり、ものすごく恥ずかしい。いたたまれない。
しかし傍目から見ると、二人の行為はまるきり恋人同士のそれである。
けれども残念なことに、にとってシンクは弟にも等しい、家族のような存在だ。
だが。
シンクはいまや青年に近づきつつある少年であり、を一人の異性として、みている。
たとえ同じ行為であっても、がしたことと彼がしたことではまるでわけが違っている。
そして、自分がどういう見られ方されているのかをきちんと察しているシンクにとって、彼女の近くにいられることは喜ばしいことであると同時に、複雑な感情をも、同時にもたらすものなのである。
距離。それはもどかしい、
2018.03.02 初出
2022.04.22 加筆修正