つめたいぬくもり
その日、シンクは朝から体がいやに怠かった。
頭が重い。眩暈もする。ここ数日、徹夜続きが多かったせいだと己を納得づける。幸いにして今日の仕事は書類事務ばかりだ。座っているのならまだ苦ではない。
……ただ、時折視界が渦巻いて見えるのがかなり不快だ。文字がうまく識別できない。もどかしく、苛立たしい。
――効率が悪いにもほどがある。少し休んだほうがいいだろう。
そう判断し、「仮眠取ってくるよ」と椅子から立った直後。なぜか床が目の前に広がっていた。
「えっ、シ、シンク!?」
補佐官の娘――が慌てて近寄ってくる。倒れた体を抱き起こされる。
「大丈夫? って、うわ、すっごい熱あるんだけど!?」
「……ねつ、」
「風邪かな? とりあえず医務室に――、いや、往診してもらおう! ひとまず仮眠室で横になろ。立てる?」
「立て……、っ」
地についていた両手に力を込めたところで、バランスを崩したものの済んでのところでに抱き留められた。やわらかな感触に、いまはひどく安心感を覚える。
「あっつ……本当にひどい熱だ……! 本格的に風邪だ!」
「……」
風邪だ、と言われた。瞬間。朝から感じていた倦怠感のすべてがそれだったのかと、シンクが初めての経験を体に刻み込んでいるさなか。
やわらかな熱を感じたまま、意識が途切れた。
*
次にシンクの意識が戻ったとき、見慣れた天井が広がっていた。執務室備え付けの仮眠室だ。
周囲の状況を把握したところで、視界が広い。――と気づいた瞬間、片手を持ち上げ顔に手を添え――いつも着けている仮面がなかった。
ベッド脇を見遣れば、サイドテーブルにぽつんと置いてある。その事実に安堵する。なくては、ならないも。
自分の素顔は決して見られてはいけないのだから。
「あ、気づいた?」
そこへちょうど、が部屋に入ってきた。手に桶を抱えている。ベッド脇までやってきて、仮面のすぐ脇にタオルを浸した水桶を置く。
そして、ちゃぷり、と、桶の中に手を差し入れ、タオルの水気を搾り取る。
「……驚かないわけ?」
シンクは声をかけた。
何に、とは、愚問である。
シンクがシンクでいる理由。いついかなるときでも仮面を着けている理由。導師イオンのレプリカたる出生の秘密をいざ目の当たりにし、は、
「ああ、うん。やっぱ同じ顔なんだ、って思った。それだけだけど?」
と、こともなげにいった。今日の晩御飯はなんだろうなー、という言葉くらいに、まるで重みが感じられない。その軽さにシンクはなぜだか安堵した。
は水気を絞ったタオルで、シンクの素肌の、額に浮いていた玉の汗を、慈しむようなやさしい手つきでぬぐい取ってくれる。タオルの冷たさが、火照った体に心地よい。普段は仮面で隠されている素肌に触れる、やわらかな感覚が、くすぐったいとすら感じる。
こんな風に優しく触れられるのは――ひどく慣れない。
まるで、自分が、大切にされるに値する存在だと錯覚してしまいそうになる。そんなわけがないのに。自分は世界に不要なレプリカで、廃棄物で、だからこそ、必死でしがみついている。
死なないように生きている。
だというのに。
この補佐官の少女は、は、そこらの人間と同じか――あるいはそれ以上の存在として、シンクに接してくる。レプリカも、廃棄物も、何も関係ないといった風に。そんなとき、シンクは自らの呪わしい生を、束の間だけ忘れることができる。
――きみに心があって、意思があって、今ここにいることは。他の誰とだって同じなんだよ。
熱でぼんやりとした思考が、ふと、かつて言われた言葉を思い出した。
だから。
「ちょっと熱、測るからね。……うん、やっぱまだあるなあ」
やわらかな手のひらが、ひやりとした感触が、シンクのむきだしの額にぴたりと添えられる。
触れる手のその冷たい体温が今は心地よかった。
つめたいぬくもり
2018.04.14 初出
2022.04.20 加筆修正