掌編四編

『溺れる』

 バタン
 いやに大きな音をたて、執務室の扉が閉まった。次いで聞えたのは施錠音。鍵をかけること自体はおかしくない。重要な会議がある場合には、不用意に立ち入られないようにと施錠されることもある。
 が。
「ガイア?」
 と、は扉を閉めたその本人を振り返る。身長差からやや見上げたガイアの顔は、どこか楽しげな笑顔をその隻眼に浮かべている。そも、鍵なんてかける必要がどこにあるのだろうか。昼休憩後は簡単な書類仕事しか残っていない、と扉を潜る直前に話していたのに。
 が口を開こうとする前に、ぐっ、と身体が引き寄せられた。あっと思う間もなく、額に唇が落とされる。そうして頬に手が添えられ、優しく何度もなぜられる。
「……仕事中だって、ば」
 やっとのことで絞り出した声が、これだ。我ながら説得力に欠けている自信はある。
「なに、鍵はかけた。邪魔者は入らないさ」
 そういう問題じゃない、という反論は音になる前に吸い込まれた。
 触れるような、優しいキスを何度も何度も重ねる。
 体温が、近い。
 ――溺れそうだ、と思った。
 この熱に。ガイアの優しさに。彼に与えられられるすべてのものに。
 でも不思議とそこに不快感はなく――。
 溺れるのも、悪くない。そう教えてくれたのは、他でもないガイアその人なのだから。

『消毒』

 ぴり、とした痛みが顔に走ったのは一瞬のこと。感触からして浅い。ならば今は戦闘中だ、構うことはないと、一瞬で頭の中から傷のことは消えた。

 戦闘も終わり、事後処理を終えて騎士団本部に帰還する。幸いにして軽傷で済んだ部下が数名いたことをガイアに報告すれば、彼はなぜか渋面をに向けた。
「……その傷はどうした?」
「傷?」
 ガイアの手が伸びてきたかと思えば、顔に触れてくる。ある箇所を撫でられた瞬間に微かな痛みを覚え、そういえばと傷の存在を思い出した。
「何があった? 誰にやられた?」
「ただのかすり傷だって。すぐに治るよ」
 ひらひらと手を振ってこたえる。
 と。
 何かを企んだかのように、ガイアはにやりと笑みを浮かべた。
「動くなよ」
 がし、と大きな手のひらが両側から顔を包み込む。傷がある位置は避けて。なにをするのか、逃げようとしてもしっかりと捕らえられて叶わない。
 そうして、ガイアの顔が近付いてきたかと思えば――
「っ!」
 べろり、と傷に舌が這わされた。
「っちょ、ガイア!」
「消毒だ」
「なっ、」
 また傷を舐められる。ざらりとした舌の感触にぞくぞくする。唾液で湿った素肌が、ガイアの吐息を敏感に感じ取る。言い様のない感覚に、はぁ、と知らず息がこぼれた。
 何度か繰り返して満足したのか、ガイアの顔が離される。と、最後にキスをひとつ、落として、
「そんな顔するなよ。食っちまいたくなるだろ」

『あなたもわたしも』お題:喧嘩

 コンコン、とノック音が鳴る。扉を開けて執務室に入ってきたのはホフマンだ。そして入室した瞬間に彼は異変を悟る。
 ……空気がどことなく重い。否、妙な緊張感が漂っている。
「失礼します。報告書を持ってきました」
「ああ、ご苦労さま」
 すかさず補佐役の彼女が席を立ち、書類を受け取ってくれた。普段通り、のように思えるのに、勘がささやいている。彼女――女史と、騎兵隊長ガイアの間になにかがあった、と。
 この二人が恋人同士であることは騎士団に広く知れ渡っていることで、その仲睦まじさは、ときに人目のないところでやってくれと正直思わないでもない。決して職務をおろそかにしているわけではなく、ただ、見せつけるよう――実際ガイアの方にはその意図があるだろう――スキンシップをたまにやらかしてくれるだけだ。
 それがどうしたのか、二人の間に漂うピリピリとした空気に居心地の悪さを感じてしょうがない。
 立ち入れば身が危ないと察し、ホフマンは一礼をして退室をした。





 ホフマンには申し訳ないことをした、とは思う。いかんせんタイミングが悪かった。
 内心ため息をつきたくなるのは、珍しくガイアと喧嘩をしている真っ最中だからである。
 きっかけは、自分が悪い。戦闘で怪我を負ったのを大したことないからと隠したのを、ガイアが目敏く発見した。他に深い手傷を負った者がいたので、そちらから手当てをしてもらおうと考えてのことだ。痛みには慣れているし、戦闘の後処理もあった。だから後回しにしたのを咎められた、というわけだ。
 ――普段は気にならない沈黙が、今日はいやに居たたまれない。
 ふぅ、と今度は実際にため息を漏らしたと同時に、ガイアからも同じく息を吐き出す音が聞こえてきた。
「……なあ、
 執務机の向こうから声が投げかけられる。
「……なに?」
「俺はな、腹を立ているぞ」
 眇められた隻眼が、つい、と向けられる。咎めるように、視線が険しい。
「理由は解るな?」
「その……わたしが、怪我を隠した、から」
 気まずさから思わず顔を背けた。
「そうだ。お前が自分を大事にしないことに怒ってる」
「……」
「仕事熱心なのはいいがな。それよりも大事なのは、お前が無事かどうかなんだ」
 ガタ、と席を立つ音が鳴る。移動する気配があり、ふと顔に影が落ちた。長い指に顎を掬いとられ、上を向かされる。
 視線が、合った。
 宝石のようなアメジストの隻眼には、気遣わしげな色が浮いている。
「お前の強さを信じてないわけじゃない。だがな、それと心配するかしないかは話が違う。……あまり心配をかけさせないでくれ。なにかあったらと気が気じゃない」
 その言葉にはっとした。
 ガイアの言い分はもっともで、そして何より、自身がガイアに対して思っていることと同じだったから。
 それに気付き、
「心配かけて、ごめん」
 するりと謝罪を口にできた。
「ああ。こんな思いは二度と御免だな。もうするなよ」
「肝に命じるよ」
 頷いてみせれば、見上げているガイアの相好がふっと崩れた。
 これで和解できただろう。喧嘩はお終いだ。
 さあ仕事に戻ろう、と顎にかかったままのガイアの指を外そうと手を添えようとして――なぜか腰に腕が回された。ぐい、と抱き寄せられ、
「ん、っ」
 柔らかいものが唇に触れた。
「ちょっ、ガイア」
「なんだ?」
 何度も落とされるキスに、声は楽しげだ。
「まだ仕事中だって、ば」
「知らんな」
 どうか誰も入って来ませんように、と祈りながら、抗えないのもしょうがない。

『キスの日』

「知ってるか? 今日はキスの日なんだそうだ」
「は?」
 神妙な顔つきのガイアが言い放った言葉に、真顔で問い返してしまったのは許してほしい。それくらい突拍子もない台詞だった。付け加えるとここは彼の執務室であり、つまり、今は仕事中、なのである。
 ――上司であり恋人、という立場を大いに利用しては、勤務中にあれこれとちょっかいをかけられることは今に始まったことでもないのだけれど。
 しかしながら、一体この男はそういう知識をどこから仕入れるのだろう?
 酒場か。酒場だな。毎夜のように入り浸っていることはモンドの酒飲みの間では広く知れ渡っているし、趣味と実益を兼ねている現実をも認識している。なにせ、二人で飲みに出かけると声をかけられることは日常茶飯事だ。その度にガイアは、
「すまんが今日はデートなんだ。邪魔なんて野暮はしてくれるなよ?」
 なんて、さらりとかわしてくれる。もっとも酒飲みの情報網は伝達の広まりが速く、最近では賑やかしで声をかけられることの方が多い。つまりガイアとの関係は酔っ払いの間で大っぴらに知れ渡っているということだ。

 閑話休題、話を戻そう。
「つまり、それで?」
 ろくなことを言い出さないだろうと検討をつけ。胡乱な眼差しで睨んでやれば、相手は隻眼をニヤリと歪めた。
「なに。いつも俺からしてるもんだからな、たまにはお前からキスしてくれないかと思っただけだ」
「……はい?」
「キス。してくれないか?」
 胡散臭い笑みがいっそう深くなる。この男、明らかに楽しんでいる。そういう人間だ。よく知っている。
 それにしても、だ。
 予想していたよりも、何というか。……叶えてやれないこともない、と、とっさに思ってしまった。でも素直にやってやるのは、いつもしてやられている側からするとなんだか癪だ。
 さてどうしたものか、と思案を巡らせる。――ガイアはニヤニヤとこちらを見ているばかり。がどう出るのかを愉しんでいるのは火を見るよりも明らかで、それにどう一矢報いてみせようかと考え。意を決し、椅子から立ち上がった。
 自分の執務机を迂回し、ガイアの隣に立つ。自然と上目遣いになるアメジストの瞳には楽し気な色が宿っている。そこに唇を引き結んだ自分の顔が映っていることを認めた。身をかがめ、そのくらいに顔を近づける。
 鼻と鼻が触れ合いそうな距離。吐息が肌の表面をすべり、少々くすぐったい。褐色の頬に両手を添え、
「……照れるから、目は閉じて」
「仕方ないな」
 相手の目蓋が下ろされたのを見届けてから、唇をそっと重ねた。
 なんだかんだ言って、恋人の願いは叶えてやりたいものだから。

掌編四編(初出 2022.02.07)

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