Bad cold

 目が覚め、朝が来たのだとはぼんやりと認識する。
 そう、ぼんやりと。
 いつもと違い、感覚に違和感があった。ベッドから起き上がろうとしても身体が重く、思うように動かせない。思考も朦朧とする。何より、身体がひどく熱かった。
 横になったまま、のろのろとかろうじて持ち上がった手を額に置く。――やはり熱い。
「風邪、か……」
 喋ると喉に痛みが走る。
 昨日、帰宅中に激しい雨に降られたせいだ、と検討はついた。身体がすっかり冷えてしまったので湯船に浸かって温まったけれども、冷たい雨は思ったよりも身体を冷やしたらしい。春が近づいてきたので、季節の変わり目に体調を崩しやすい体質も相まって、熱が出たのだろう。
 ゴホ、と咳が出る。
 今日も仕事だから起きなければと思うのに、熱を帯びた身体は思った以上に言うことを聞いてくれない。
 こんな時は一人暮らしが不便だ。欠勤の連絡をしようにも手立てがない。
 身体の怠さを感じながら、の意識は沈んでいった。


 *


「……遅いな」
 西風騎士団本部、騎兵隊隊長執務室。
 部屋の主、ガイアはぽつりと独りごちた。
 が出勤して来ないのだ。勤務表を確認したが、今日は出勤の予定となっている。寝坊だろうかと待っているものの時計は十時過ぎを示している。遅刻などほとんどしたことがない彼女だから、この時間になっても現れないのはかなり珍しい。
 そういえば、昨日は夕方に激しい雨が降っていた。ガイアは休みだったが、は出勤していたはずだ。そうなると帰宅時に雨に降られた可能性がある。風邪でもひいたかもしれない。
「考えても埒が開かない、か」
 幸いにして、急ぎで片付けなければならない書類はない。
 の様子を見に行くべく、ガイアは執務室を後にした。


 コンコン。が住むアパートの部屋の扉をノックする。……応答がない。少し待ってから、再度ノックをする。やはり家主が出てくる気配がない。
「……行き違いになったか?」
 とはいえ、万が一の可能性がある。ガイアは合鍵で鍵を開け、部屋に入った。途端、咳き込む音が聞こえてきて大股でベッドに近寄れば、苦しそうな咳をしながらがベッドで寝ていた。
 覗き込んだ顔は赤い。熱があるのだろう。やはり雨に降られ、体調を崩したか。様子を見にきて良かった、とガイアは内心で胸を撫で下ろす。
「おい、大丈夫か?」
 声をかければ、ふるふると目蓋が持ち上がる。熱で潤んだ瞳が宙を彷徨ってから、ガイアの姿を捉えた。
「ガイア……?」
 名を呼ぶ声はひどく頼り無げで、か細い。ここまで弱った姿を見るのは初めてで、ガイアは気遣わしげに眉をひそめる。
「心配して様子を見にきて良かったぜ。熱は測ったか? 飯は?」
「ん……測ってない……食べてな、ゴホッ」
 返事もどこか覚束ない。
 手袋を脱いでの額に添えると、かなりの熱が伝わってくる。
 咳もしていることだしこれは医者を呼ぶべきだろうと、手袋をはめ直しながら声をかける。
「医者を連れてくる。食欲はあるか?」
「うん……」
「じゃあ食いもんも買ってくるから、大人しく寝ててくれよ」
 指の背でのまろやかな頬を撫でると、彼女は小さく頷いた。


「風邪でしょうね。昨日の雨に降られたのと、季節の変わり目で体調を崩したのでしょう。薬を飲んで安静にしていればすぐに良くなりますよ」
「ありがとな、先生」
「薬は食後に飲んでください。では、お大事に」
 診察を終えた医者は帰った。
 ガイアはベッド脇に椅子を置き、そこに座る。
「ただの風邪で良かったな。飯は食えるか?」
「うん……」
 怠そうにしているが、はベッドで半身を起こしている。細かく切った野菜を煮込んだスープの器をガイアから受け取り、ゆっくりとスプーンで掬って食べていく。
 ガイアが見守るなか、はスープを完食した。医者が置いて行った薬を水で飲み、ふぅ、とため息をはく。
「そら、食ったら寝ろ」
 ガイアの言葉に、大人しくベッドに横になる。そんな彼女の肩まで毛布をかけてから、ガイアはの頭を優しく撫でた。
「大人しく寝てるんだぞ。俺はそろそろ本部に戻らなきゃならない」
 本音を言えば付き添っていてやりたいのだが、仕事を疎かにするわけにもいかない。後ろ髪を引かれる思いで椅子から立ち上がれば、くん、と引っ張られる感触がする。視線を下ろせば、が服の裾を掴んでいた。
 潤んだ紅い瞳が、ガイアを見上げている。
「……キス、してくれないの?」
 息を飲む。
 なんだその破壊力のある言葉は。可愛いにも程がある。
 けれども、戸惑いは一瞬のこと。
 ガイアは身をかがめ、の唇にそっと己のものを押し当てた。
 触れるだけのキスをして、顔を離す。
「続きは元気になってから、な?」
「ん……」
 頷いたの頭をもう一度撫でた。
 今度こそベッドから離れ、部屋を出て戸締りをする。少し歩いてから立ち止まったガイアは、顔を手で覆いながら空を仰いだ。
「なんだあれは……病人じゃなかったら襲ってたぞ……!」
 小さく吐き出した言葉は通行人には届かない。
 今ばかりは自分の理性を褒め称えてやりたかった。


 *


 夕方。仕事を片付けたガイアがの部屋を訪れると、随分と顔色の良くなった彼女が出迎えてくれた。咳はまだしているものの、顔の赤みは引いていて熱はだいぶ下がったように見える。
「ガイア、昼間はありがとう。お陰でかなり具合が良くなった」
「そいつは良かった。夕飯を買ってきたが食うか?」
「食べる」
 昼間は覚束なかった口調だったが、今はもう受け答えがしっかりしている。
 ベッドではなくテーブルで食事をし、食後の薬を飲み終えたタイミングを見計らって、ガイアは「そういえば」と口火を切った。
「昼間のこと、覚えてるか?」
「……?」
「キスをねだっただろう。可愛かったぜ」
「っ!?」
 風邪ではない熱での頬に赤みが差す。
「そ、そんなことした!?」
「覚えてないのか」
「記憶にない……!」
 慌てふためく姿がやはり可愛く、ガイアの口角は自然と持ち上がった。

Bad cold(初出 2023.01.30)

back